昭和四十三年六月七日 朝の御理解


御理解第七十三節 変人になれ。変人にならぬと信心はできぬ。変人というは、直いことぞ。


 この御理解を、まあ、いろいろに頂いておるのでございます。今日は、変人になれ。変人にならぬと信心はできぬと、この信心というところを高度な意味合いにおいての信心。それには、どうしても変人にならねばならぬ。変人とは直い事であると言うことを、この御理解から分からして頂きたいと思う。
 「変人にならぬと信心はできぬ」と、はっきり仰っていますね。そういう信心である。
 それは、信心はでけておる。たくさんの人が信心をしておる。みんなが変人じゃない。そういう意味合いにおいての信心なら、誰でもでけておる訳なんです。
 合楽に千人なら千人の信者がおるとするなら、千人の信者が信心をしておる。ここで言われるのは、「変人にならぬと信心はできぬ」と言われる信心なのである。
 しかもこの変人とは直ぐい事ぞと、直ぐい。直ぐいとは素直の直が書いてある。まっすぐというときに使う「直」ですね。
 昨日は、お道の信心がどうしてこの世にできなければならなかったかと、立教神伝を天地の親神様が教祖の神様にお下しになられて、そこから金光教の信心が、言わば、開けた。その神様の願いの中には、世間になんぼうも難儀な氏子があり、取次ぎ助けてやってくれというところにあった。しかもその助けられ方というのが、神も助かり氏子も立ち行く、氏子あっての神神あっての氏子。繁盛致し末々親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行くというところにお道の信心があるのです。信心すればおかげがあるということはね、神も助かり氏子も立ち行くというところにあるのです。そういう信心がなかったんです。
 そういう信心を、世間になんぼうも実意丁寧な信心をしておる氏子はあるとこう仰る。それでもやはり、難儀が絶えてない。難儀がある。そこで、お前のように実意な信心をする氏子が、その実意丁寧な信心を一つの手本にして、取次ぎ助けてやってくれということに始まるのです。
 信心に言い訳はたたん。信心に言い訳はない。と言われております。例えばそれは、一つのお参りということであっても、忙しかったからとか、こうであった、ああであったからと言うようにその、理由が、言えばある。お参りのできなかった訳はある。けれどもね。そういう理由や訳は信心には成り立たない。言い訳は聞かん。言い訳ばっかりしてから、言い訳は聞かん。と言うあの意味じゃない。親のほうから言えば、これが言い訳ばっかりしてから。そういう意味で、がむしゃらに言い訳をしてはならんというのじゃないです。信心には言い訳は成り立たんのです。
 ですから、普通で言う、例えば子供が言い訳をしますと、言い訳ばかりしてからと、言い訳のあることでも、出来ることでも言い訳はしちゃならんものの様に、がむしゃらに頭から押しつけるような意味でのことじゃないですね、信心は。
 それが、また言われておる。「変人にならねば」、変人になっての信心にならなければ、そこがわからんのです。
 もう言い訳しよったら馬鹿らしい。これでは信心が進みません。「お参りしようと思いよりましたばってん、丁度お客さんが見えましたもんですからつい、御無礼致しました」。もうお客さんのせいにする。そういう言い訳は聞かん。けども、これはですね。分かりやすく言うと、おかげのことでもですね。「お前があんなにお願いするもんじゃけん、おかげを用意しとったばってん、他の人が無理にとお願いしなさったもんじゃけんそっちのほうに回したてい」と、言われたって仕方がないだろう。 お前がやあや言うてからお願いしたもんじぁけん神様はちゃんと準備しとったんです。こっちの人がまだやあや言いなさるもんじゃけんそちらのほうにおかげは回したてい。ね、信心は合わせ鏡と同じことです。
 そういう意味合いにおいて、きちっとしたおかげをいただく意味合いにおいてでも、言い訳はなりません。例えば、万一のときにはね、詫びるより他ありません。自分の身不徳を恥じるより他ありません。一心にお参りしようと思うてお参りができぬはずがない。一心が足りんからです。真心が足りんからです。修行精神がないからです。と言われたらそれきりなんです。
 これはまぁ、手前のおかげという意味合いにおいてそういうことが言えると思うんですね。それで、私が思うのは、お願いをしておかげを頂くという信心から、信心をして頂く信心に変わらなければならないということです。
 お願いをして頂くという信心から、そこのところもあっちゃいけんというのじゃないですよ。誰でも初めはお願いに参ってくるのです。それだからと言うて、お願い、お取次ぎを頂くということは別なんです。様々なことを、たとえて言うならば、病気をしたときには、病気のことをお届けするし、お金がなければ、お金のお繰り合わせをお願いするし。けれども、それはお取次ぎを頂いておかげを頂くのですから、願い信心ということにはならんのです。お取次ぎを頂く。そこに、お取次ぎを頂いて起きてきたことは、良いこと悪いことすべてが良いという信念が、段々生まれてくる。お取次ぎを頂かずして起きてきたことは、良いこと悪いことすべてが悪いということになってくるのです。そのために、やはりお願いじゃない、お取次ぎをいただいとかなければならない。お取次ぎを願わなければならない。
 お取次ぎを願わなければならない。おかげを願うのじゃない。お取次ぎを願う。そして、尚且つお取次ぎを頂いて帰らなければならない。
 そこで、お願いをしておかげを頂くという信心から、信心をしておかげを頂くという信心に変わってこなけりゃならない。そういう意味合いにおいて私が言う、これは、今日の私の信心では最高の意味合いだとこう思うのですけども、今迄に様々に説かれて参りました。ここで言うなら、信心は変人になれ。変人とは直ぐい事ぞ。変人にならんと信心はでけんという。合楽に千人の信者がある。その千人の信者が信心をしておるのである。その千人が全部変人かと言うと変人じゃないでしょうが。ここに教祖が仰っておられる変人じゃないでしょうが。
 今日は、だから、そのなかでも教祖の仰る信心を頂いていこうとする者。それには、変人になれというのです。
 そこで、第一番に話したことは、変人になるためには神様の前に言い訳は禁物だと、神様の前にはもう、絶対言い訳はしてはならん。それは、親が、どうか言うと子供が言い訳をする。どうか言えば言い訳をする。言い訳しちゃでけん。と言うてがむしゃらに言い訳をしちゃでけんという、そういう意味ではない。信心でいう、神様の前には言い訳は成り立たんのである。神様の前には言い訳は成り立たんのだ。
 昨夜遅うございましたけん朝はご無礼いたしました。お参りしようと思いよりましたばってん他に用事が出けましたからお参りが出けませんでした。そういうことはね、もう言い訳です。だから、そういうから、「ああ、そうでしたか」、「そりゃ寝うあんなさったじゃろう」「そりゃ丁度ふが悪うあんなさったですね」ということになりますけども、それだけでよけりゃいいけれども、おかげのほうがそういうことになってきたらどうします。
 「お前がお願いをするけん、ちゃんとおかげを用意しとったばってん、こっちのほうから無理言われたけん向こうに回したてい」と、神様が言いなさったら。その代わりに神様も言い訳ができなさらん。それこそ神様が原切ってからでも、そのおかげは下さる。手腹切ってからでも。神様が本当の信心はでけとらんでも、そういう生き方にならせていただくとですね、それこそ、その氏子のために、いうなら手腹切ってでも、神様がおかげを見せて下さり、おかげを下さるのです。
 そこで、それを言葉でどういう風に表現するかと言うと、「お願いをして頂く信心から、信心をして頂くおかげの信心にならなければならん」ということになるのです。
 ここで、教祖が、「変人にならんと信心は出来ん」と仰る、その数少ない信心にならなきゃならない。数少ないその信心とは、どういう信心か。「直い」ということはどういう意味なのか。ここで、私どもが、いよいよ信心のみっつの要素ということで言っておりますように、まず、自らなる心の帰依ということと同時に御教えへの帰依。御教えを限り無く頂くということの有難さということ。言わば、ここには信心の稽古に来るところという。
 昨日、福岡の渡辺先生が丁度十日ぶりにお参りしてみえて、丁度、毎日電話でお届けがあった。原因不明の熱があって、電話をかけられるとき、いつも涙声で、「周囲のものが心配してくれてから、さぁ、医者じゃ、薬じゃ、注射じゃというてしてくれます。けれども、私の今度の病気は、注射じゃだめ。もう絶対熱が下がるというて、お医者さんが今度は熱が下がりますよ」というてから、注射を打って帰られるそうです。しばらくして計ってみた。「見よってごらん。今度の私の病気は注射じゃ治しなさらん」と言うてですね、嫁さんに計ってもらうと、注射を打った後は必ず熱が出ておる。「こりゃお母さん、注射したらかえってひどうなんなさる感じだ」と言う訳です。
 もう十日間、とにかく焦燥、気が気じゃない。何が気が気じゃないかと言うとね、合楽でどういう信心が今、日々進められておるだろうかと思うたら、気が気じゃないというのです。
 丁度昨日、熊谷さんと波多野さんが当番か何かで遅くなっておられたときに丁度参ってきておられたから、そこに最後のご挨拶に見えとったから、ちょっとあなた方も先生が言いなさるとをちょっと聞いてごらんなさい」というてから、言うたことでした。
 十日間もね、十日間も合楽にご無礼をして、合楽ではどういう信心が今進められておるだろうかと、どういうことを教えておられるだろうかと思うたら、もう気が気じゃなかったというのです。いよいよ、御教えへの帰依というかね、いよいよ御教えを頂くということの有難さが身に染みてきておられる。今迄知らなかった新知識が、信心の、いわゆる新たな知識がどんどん入ってくる。一日遅れれば、一日だけ頂けないことになる。
 先生、今日からその十日間を取りかえさなきゃなりません。どうぞ、万事にお繰り合わせ頂きますようにというて、お願いをしておられます。
 私はね、やはりね、本当にわからないと信心は出来んと思う。そりゃ、信心とはね、ただ有り難うなる稽古だ。一語で言えばそれに尽きるのです、本当は。その有難くならせて頂く稽古がですね、本当のことがいよいよ深く広くわからなければ、本当の深い、広い、有難いになって来ないのです。
 何のためにお釈迦様やらキリスト様がですね、どんだけあるやらわからんような、勃大な、例えば経典とか、あれを残されたか、こりゃ、お釈迦様ならずとも、キリストならずともです、教祖の神様がです、ご自身がおかげを受けられたことを話にして残しておいて下さる、このことだけでもです、その深さ広さにおいては限りがない。その限りがない程のみ教えをです、本当に身につけていく。信心とはもうそれなんですから。信心とは、それを身につけていくということが信心なのですから。おかげを頂くということが信心じゃないのですよ。俺はもうこれだけわかっとるからというのじゃないのですよ。信心はもう限り無く。そこを教祖は、一生が修行じゃとこう仰る。本当な事から真実なことを求め抜いていくことだ。いわゆる、信心の追求をしていくということ。いよいよ天地の道理がいよいよ分かり、天地の法則をいよいよ体得させてもろうて、その道理におうた生活をさせて頂くためには、今のままではいけないということ。しかも、今迄そういうことを聞いたこともなかった。そういうことは知らなかった。それが、今、日々合楽では進められていっておる。
 十日間参ってこんならもう、いうなら手のつけられんごとありますよね、本当は。それだから、十日間あれ(テ-プ)を頂いたからと言うて頂けるものじゃないです。本当に日ん日通うて信心の稽古ができておる人たちは、そういう意味合いにおいても恵まれておるのですから、恵まれておるなら、恵まれておるだけの恵まれたものを身につけていかなければ馬鹿らしいと、私は。それもです。皆さんがそういう信心をしてそういうおかげを頂いて、言うならば、おかげの実証者になって頂かなければならない。おかげの証を立ててもらわなければならない。そういう一つの責任をも、皆さんが感じてもらわなければならない。ただお願いをしておかげを頂いたぐらいの信心では、おかげの実証は、証はたたんのだ。ただ、儲けだしよります。ただ病気が治ったぐらいなら、医者でだって病気が治っておるではないか。儲け出しよるというなら、日本の三井・三菱なんかは、信心しとらんばってんあげん儲けだしとるじゃないか。そういうことじゃない、信心は。
 私は、皆さんでも思われるだろうと思うんだけれどもね、この有難い信心を、一人でも多くの人に伝えなきゃ、伝えられたらどんなに有難いじゃろうか。この信心をわかったら、ここに一人幸せな人ができるということなんだから、何とかして、宣伝でもしてから、言うて回りたいような思いにかられることがある。
 一つの問題がある。その問題の見方感じ方。そこにその人の救われた姿、救われてない人の姿。いわゆるものの見方、考え方で違ってくる。信心させて頂いたら、こういう見方ができるのに、どうしてわざわざ問題が問題を生んで行くような考え方をしなけりゃならないだろうか。難儀が難儀を生んで行くような思い方をしなけりゃならんだろうか。どうして、泣きの涙で、有難涙の出るようなことを泣きの涙で暮らさなければならんだろうかと、思うことがある。
 信心とはそれなんだ。
 そこで、ここに教祖様が仰っておられる「信心は変人にならんと信心はできん」と仰る。いいや私もしておりますという信心じゃないということ。変人になれ、変人にならぬと信心はできぬ。変人というは直いことぞと仰るような信心。
 合楽に千人の信者がおるならば、その信者が千人信心をしておることはないけれども、ここに教祖が仰っておられる信心とは、千人が全部しておる信心じゃない。本当の信心は変人にならなければね。変人にならなければ本当の信心は頂けるものじゃない。変人とは、もう直い事。直い事とはどういうことかということを、私は、神様の前には言い訳は成り立たないということ。それは親が子供にいう「言い訳はしなさんな」と言ったような言い訳ではなくてです、もう言い訳というものは成り立たない、信心には言い訳というものは成り立たない。そこに、私どもは実意丁寧、神様の前に平身低頭詫びて行く以外ないです。
 昨日の立教神伝を聞いて頂きましたですね。その立教神伝の開口一番、こう言うておられますね。「この弊切り境に、肥灰差し止めるからその分に承知してくれ」とこう仰っておられる。これは、天地の親神様が、教祖の神様に対するところの立教神伝の一番目の断り。この弊切り境に。安政六年十月二十一日、ちょうど麦撒きも終わった。やれやれ麦撒きも終わりましたと、神様へそのお礼のお届けがあったときに、五色の紙を買ってこい。五色の紙をかく切れ、ああ切れと御弊祇を作らしなさった。それを御神殿に奉られると、それこそ厳かに神様が、神様のお言葉が下がってきた。
 金光大神に対するところの、その弊を奉ると同時に、「この弊切り境に」と、弊を切られたわけですね。五弊を切られた。その時、「この弊切り境に、肥灰を差し止めるからその分に承知してくれ」と、仰っておられる。
 これがどうでしょうね。教祖の神様が、限り無い、すばらしい変人でおありになったことが分かりますよね。その一口が、私どもであったらどういう風になるだろうか。「そんな訳には参りません。今やっと、麦撒きが終わったばかりです」と、言うことになるのじゃないでしょうか。
 まぁだ、子供は小さい。私が百姓の、家の中の言わば中心だ。とても、それは神様、もう少し、息子が成年式でも迎えてからならね、家でも譲られるようになってからならいざ知らず、まぁだそんな訳には参りませんと、言うだろう。そこのところを教祖の神様は、ね。
 次には神様が、また、切々と言うておられる。「あの時死んだと思うて欲を放して、家内も後家になったと思うて」と、言う風に、もう切々と、神の頼みをですね。それをそのままに受けておられる。それこそこの弊切り境にお百姓をやめられた。
 私は今日、変人になって欲しいというのは、ここのところを言っておるのです。もう言訳は立たん。今私が百姓をやめたら、百姓をやめなきゃなりません。皆さん方が、今日の御理解を頂いた境に、いうなら。頂いた境に本気で変人になろう。変人とは直い事。直い事とはどういうことか。神様の前には一言だって言訳はできないというほどの信心。いわゆる、信心の中に没入する。すべてが信心。ですから、もう願うことはいらんのです。けれども私共がそこらへんがころ離れておるから、お願いせんならん。いわゆるお願い信心に終わってしまう。お願い信心じゃつまらんというのじゃないですよ。そこから入ってくるのですけれども、お願いをしておかげを頂いて、神様を分からして頂いたら、教えに帰依するようになる。御教えのすばらしさに只有難くならしてもろうて、日々有難い、新しい新知識を身につけるということが楽しゅうなってくる。だんだん本当の信心に向かってきたなら、いよいよ変人にならせてもろうて、神様の前には言訳は成り立たないという信心。そういう信心をね。私は直い事だと、こう思うのです。
 今までの説明はそうじゃなかったですね。だから幾重にもここは頂かなければなりません。直い。これが本当の信心者の生き方だ。これが信心者の本当の姿だということなんです。そこんところを私共がですね。頂かしてもろうて、数少ない合楽の信奉者の中に、千人の中の百人なら百人の、例えば今日の朝の御祈念にお参りしておられる皆さんだけでも、この御理解を頂くことを境に変人にならして頂くという信心にならして頂いて、神様の前には言訳はなり立たないという信心にならせて頂いて、いよいよ教えの深遠さに、一日遅れたら、一日が損である。それほど、気が気じゃないような信心にお互いがならして頂いて、それを身につけていかないと、何十日ず-っと頂きよっても同じことです。けれどもね、真剣に頂くなら、もう。こりゃ、学校に行くときに、私共が一週間なら一週間学校を休んでご覧なさい。どこから勉強してよいやらわからんでしょうが。ね、追いつけんでしょうが。そういう気持ちで信心の稽古をしなけりゃいかんのです。
 この頃から私、ここの先生方と話したことですけども、ああしてテ-プやら、いろいろ収録されております中に、私はどうも思うんだけどもね、テ-プでも一週間なら一週間、シリ-ズ物ですね。確かに、あの、例えば、何日か続きますよね。例えば、自力とか、他力というご理解が出てきたときに、毎日頂きよらなければ、どういうことが自力なのか他力なのか、金光教の信心は、自力でもなければ他力でもないというのはどういう信心なのかということが分からんです。一週間ぐらい続いて頂かなければ。だから、そういうシリ-ズ者にして、ぺ-プでも一週間なら一週間まとめておかなければ行けません。例えば、還元なら還元という御理解が出だしたら、還元ということについての御理解がね、十日なら十日間たまっとかなければね、本当な事は分からないのですよ。というように、中に一日欠けたら分からんのですよ。本当のことは。
 そういう意味で、本当に信心を稽古する、勉強するというなら、そういう、今渡辺先生がいうような信心の稽古させて頂く者の姿勢、態度というものが必要じゃないかとこう思うのですよ。
 そして、数少ない。合楽の信者の中にまた数少ない、そういう変人になっていく人たちがです本当の信心を身につけて行くことによって、本当のおかげを現して、それをいわゆる実証して、自分の身をもって、家をもって実証して、それを証にしていくところに私は、難儀な人が取次ぎ助けられて行くところのお導きができると私は、思うのです。
 皆さんが少し分かられただけでも実感されることであろうとこう思う。本当にこういう時に信心を頂いておればこういう考え方ができるのに、本当はこういう時に泣きの涙が、有り難た涙がこぼれるように有難いのに、腹立てるだんじゃなか、お礼を申し上げねばならないことに腹を立ててからと、思われることがあるでしょうが。そこに難儀があるのですから。その難儀を本当に救い助けさせて頂く御用に、銘々が立たせて頂くために、そういう私どもは、責任を感じさせて頂くような信心を頂いて、まずおかげの実証を立てていく、いわゆるおかげの証を立てていく。
 お願いの信心の時にはなる程、お願いをして病気も治った、これも整った。けれども、これは本当のおかげではなかった。けれども、信心しておかげを受けることになったら、もう限りがない。誰が見ても合点がいく。これには、人がついて来ん訳にはいかん。そういう信心を頂くために、お互い一つ変人にならせてもらうおかげを蒙らなければいけんのです。
 例えば、変人とは、これが本当と思うたらそれを真っ直ぐに行うて行くことが変人だという風に今までは説かれましたですね。けど、今日の御理解のところの、それも本当ですよ。けども今日の御理解は、ただ今、立教神伝の一番はじめのところにありますように、変人とは、神様の前には、神様に仰せには背かれないという生き方なんである。その場合、人が笑うても謗ってもそのことは問題じゃない。そこを一遍過程として、通り抜かせて頂かなければです、これは本当の信心ではないということを、御理解にはそう説いてあります。
 だからもう一遍ここを頂いてください。「変人になれ。変人にならぬと信心はできぬ」と、仰っておられる。変人にならぬとできない信心。それは本当に数少ないものだと、私は思うんです。変人というは直ぐいことぞ。直ぐいということは、神様の前に言い訳をしないということだ。いや、言い訳は成り立たないということ。というほどの信心を身につけておいでられたら、そこから本当の信心が身についてくりゃ。本当の信心がですね、言わば、現れてくる。それを私共はおかげという。本当のおかげという。願わんでも、言わば、頼まんでも限り無く道が開けていく。おかげを受けて行けれる道をです、私共が開拓していかなきゃならない。開拓者の修行というものを皆さんが承らせてもらうということによって、難儀な氏子がいよいよ皆さんの信心によって、取次ぎ助けられてくる。皆さんたちの導きによって人が助かってくる。そこに、立教神伝の神の願いというものを感じます。ためには、どうでも先ず、変人にならせて頂きたい。変人になりたいという願いにたっての信心。それを、お願いをして頂く信心から、信心をさせて頂いてから頂くおかげにならなければならない。ためには、変人にならなければなりません。変人にならなければ信心はできんと仰るほどの少数の信者にお取り立て頂かなければならない。それは、おかげの証を立てる。いうならば、キリスト教の言葉に選民という言葉がありますね。選りに選り抜かれた氏子という意味らしい。ですから、合楽の信奉者の中にも、選りにも選られ、抜きにも抜かれた、言わば、信者の自覚にたっての信心が必要じゃないでしょうかね。どうぞ。